佐賀県有田の街並有田焼とは、九州の佐賀県有田町を中心とする地域で生産される磁器のことです。日本で初めて作られた磁器であり、日本を代表する伝統工芸として知られています。

陶器と磁器の違い

有田焼が登場するまで、日本で生産される焼き物は陶器でした。陶器はカオリナイトやモンモリロナイトが多く含まれている粘土を使って作られており、厚手で吸水性があります。対して磁器は、粘土に石英や長石を含んだ陶土を原料としています。焼成温度も陶器より高いので、吸水性がほとんどなく、半透光性のある白い素地が特徴です。軽く叩くと金属音がするほど固く焼きあがります。

陶器を土もの、磁器を石OLYMPUS DIGITAL CAMERAものと言われることもあり、陶器は暖かい味わいや表面の素朴な風合いが特徴であり、一方で、磁器は白くガラスのような滑らかさ硬質さが魅力です。

具体的なものとしては、陶器は国内では、たぬきの置物で有名な信楽焼き、萩焼き、備前焼きなど、西洋ではデルフト焼きなど

磁器は、有田焼の他には、美濃焼き、西洋ではマイセンやリチャード・ジノリ
中国や韓国の青磁や白磁と呼ばれるものになります。

ちなみに、ウェッジウッドやロイヤルドルトンと言ったブランドが作っている乳白色のなめらかな焼き物は「ボーンチャイナ」といい、陶器でも磁器でもなく、1800年頃にミントンが発明した「牛の骨を焼き込んだ焼き物」になります。

有田と伊万里

茶筒の染付磁器

有田焼は伊万里焼と呼ばれることもあります。これは有田焼が他の地域へ運ばれる時、十数キロ離れた伊万里港まで運ばれ、そこから船で全国、もしくは海外に旅立っていったからです。そのため、外国では「imari」という呼び方が定着しています。今では船で運ばれることはなくなったので、有田地方の釜で作られるものを有田焼、伊万里地方で作られるものを伊万里焼と区別するようになりました。

有田焼の起源

OLYMPUS DIGITAL CAMERA有田焼は、16世紀末に起きた豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、出征した肥前領主・鍋島直茂が日本に連れてきた朝鮮人の陶工、李参平が有田で登り窯を開き、磁器の生産を始めたのが最初です。それまで日本では磁器の生産は行われていなかったため、有田焼が日本初の磁器ということになるのです。

焼成の際、器を重ねる時に砂を用いる技術は、朝鮮半島独自の文化であることから、焼成技術は朝鮮半島の陶工の影響が確認できますが、17世紀の朝鮮磁器は白磁で絵付けの技法はほとんど行われていなかったため、絵付けの技法は中国の磁器から取り入れたと考えられています。つまり、有田焼は朝鮮の技法と中国の技法が日本で組み合された独自の製法であるといえるのです。

絵付けの技術OLYMPUS DIGITAL CAMERA

現在、有田焼の特徴として知られているのは華やかな絵付けです。しかし、現在の形になるまでには何度かの技術革新がありました。

初期の磁器は、白地に藍色1色で図柄を表したもので、磁器の生地に「呉須」と呼ばれるコバルト系の絵具(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、その後釉薬を掛けて焼造されていました。

登り窯 えんとつ実際、当時の生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うものが使われ、一方で、絵具の呉須は中国のものが使われていたことが発見されています。

また、この白地に藍色1色で図柄を表した、中国の青花と同じ技法が用いられたものが初期伊万里と呼ばれています。

その後1640年代に中国人陶工によって技術革新が行われ、1次焼成の後に、青、黄、緑を基調とした、上絵付けを行う色絵磁器が生産されるようになりました。

これは加賀の国、今の石川県九谷地方の作、いわゆる九谷焼とされていましたが、近年の研究で17世紀半ばの有田地方で作られたということが判明しました。

その後、17世紀後半、鮮やかな赤色が加わりました。新たに加えられた技法は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものです。この技法は、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになったため産まれたものです。余白を生かした作品は、当時の輸出用の最高級の磁器に特徴的な作りであり、当時輸出用の時期作りに力を入れていた、初代酒井田柿右衛門と言われ、『柿右衛門様式』と呼ばております。

柿右衛門様式と金襴手様式

OLYMPUS DIGITAL CAMERA赤を基調として絵画的な絵付けを行う柿右衛門様式は国際的に高い評価を受け、日本の代表的輸出品となりました。オランダの東インド会社によってヨーロッパにも数多く流通し、ドイツのマイセンやフランスのシャンティイなど、かの地の名門といわれた工房で模倣され、影響を与えたのです。柿右衛門の名は酒井田家の嫡子に受け継がれ現在も続いており、その技術と精神を継承しています。17世紀末から18世紀初頭にかけて、金彩と呼ばれる金の絵の具を用いることによって、有田焼はさらに華やかになっていきます。これは金襴手様式と呼ばれ、豪華な仕上がりが世界中の王侯や上流階級垂涎の品となっていったのです。

有田焼の図柄

OLYMPUS DIGITAL CAMERA有田焼に描かれる図柄は、伝統的な日本画の題材が絵画的に描かれるものが多いです。梅、紅葉、竹などの植物に鳥、鹿、虎などの動物を配したものなど、定番のモチーフがあります。中国の子どもを描いた唐子柄などもありますが、これは輸出を意識して、和風、中華風なものが好まれたという背景からです。金襴手様式が盛んになってからは、装飾的要素が強くなりました。絵付けは職人が手作業で行われており、手の込んだものは量産できないため希少品、高級品として珍重されました。量産品を生産するために簡略化された図柄を描き込んだり、型を使って同じ絵柄をプリントしたりする技術も発達しました。

鍋島藩の管理

OLYMPUS DIGITAL CAMERA有田地方を擁する鍋島藩は、幕府や大名など、日本国内の幕府や大名など上流階級向けの献上品、贈答品として磁器を生産していました。これらの品は鍋島焼といわれ、有田焼の中では最高級品とされていました。鍋島焼は、鍋島藩の藩命を懸けた贈答品として、採算を度外視し、最高の職人の最高の作品しか出回っていませんでした。また、鍋島焼を作る最高技術を持った職人は鍋島藩により生活を保障されながらも完全に隔離され、外部との接触を断たれた状態になっていました。つまり鍋島焼はトップシークレット扱いであったのです。

鍋島焼の作品の大部分は木盃形(もくはいがた)と言われる独特の皿で、その形は名のとおり、高台が高い木盃を思わせる形でした。サイズも一尺、七寸、五寸、三寸と定められていて、七寸以下については組物として作られることが多かったそうです。絵柄としては、日本風の図柄が完璧な技法で描かれ、高台外部に櫛高台と呼ばれる縦縞があるのも特徴です。

他の地方はその技術を何とか知ることができないかと考えていましたが、19世紀初めに瀬戸の陶工が鍋島焼の陶工集落に潜入し、技術を外部に伝えることに成功しました。

鍋島焼の伝統自体は1871年(明治4年)の廃藩置県でいったん途絶えてしまったが、幸いにもこういった流出によって、その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、21世紀に至っています。

また、有田焼は明治以降も高い技術を維持し続け、万国博覧会でも高い評価を得るなどしてきたのです。現在でも、有田焼は日本の陶磁器の代表的存在として私たちに知られているのです。