“有田焼は昔から伝わる日本の伝統的な工芸品です。有田焼の長い歴史の中で、何が起こっていったのでしょうか。
有田焼が登場する前は、日本で作られていたのは陶器だけでした。陶器は粘土で作られ、厚手で重量があり、軽くたたくと鈍い音がします。それに対して磁器は、陶石と呼ばれる石英と長石を含んだ石を原料とします。焼成温度が陶器よりも高いため固く、素地の色が白いのが特徴です。軽くたたくと金属音がします。日本には磁器を作る技術がなかったため、中国や朝鮮半島から磁器を輸入していたのです。
豊臣秀吉の朝鮮出兵
有田焼の歴史のはじまるきっかけとなったのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵です。この戦役で、朝鮮の陶工が日本に連れてこられたのです。当時、日本の武家社会では茶道が盛んになっており、そこで珍重されていたのは高麗茶碗と呼ばれる朝鮮半島産の茶碗でした。茶道の開祖とされる千利休が、朝鮮で日常使われる雑器の歪みのある形状を、作為のないものとして侘び寂びの思想に取り入れたのです。そんな茶道に使われる高麗茶碗は、形の整った高級磁器とは全く違うものでしたが、朝鮮半島の陶磁器への関心を高め、陶工を日本に連れてくる原因になったことは確かなようです。
陶工を連れてきたのは、今の佐賀県にあたる、肥前の国の領主、鍋島直茂でした。直茂は領内で陶工たちに陶器を作らせます。しかし、その中の陶工の一人である李参柄は、肥前の国多久で作陶していましたが、自分で納得のいく磁器を作ろうと、各地を旅して磁器を作るための原料となる陶石を求めたのです。
そして、1616年に有田の泉山で良質の陶石を発見しました。李参平は泉山近くの上白川に天狗谷窯を開き、日本で初めて磁器を作成したとのことです。李参平は和名を金ヶ江三兵衛と名乗った実在の人物ですが、実際は1610年代前半には有田で磁器の生産は行われていたようです。いずれにせよ窯の構造や焼き方は朝鮮系の技術が用いられていたので、朝鮮から来た陶工によって磁器作成の技術が日本に伝わったことは事実のようです。有田町には李参平を陶祖として祀った陶山陣社があります。
朝鮮の磁器は白磁でしたが、ここでは中国の磁器である景徳鎮に影響を受けた青花の絵付けが行われていました。有田焼はこの時点ですでに、朝鮮の磁器の模倣を離れた独自の作風を確立しつつあったのです。
鍋島藩は、1630年代に有田焼の作陶を厳しく統制するようになります。1637年に窯の整理、統合を行い、有田皿山が形成されました。ここで中国風の作風が強まり、青、黄、緑などの絵具で、古九谷様式といわれる絵付けがされるようになりました。
そして17世紀後半には、乳白色の素地に赤色の絵具で絵付けをすることに成功しました。これを行ったのは初代酒井田柿右衛門だといわれていますが、実際は有田の陶工たちが研究を重ねて開発された技術のようです。柿右衛門の名は酒井田家の嫡子に受け継がれて現在も続いており、有田焼を代表する世界的に有名なブランド名にもなっています。柿右衛門様式は輸出に主眼が置かれ、ドイツのマイセンやフランスのシャンティイなど、ヨーロッパの有名窯元でも模倣品が作られるなど、影響を与えました。
さらに、金泥を使用した金色の彩色が行われたものも登場し、金襴手様式といわれました。これは中国明代の磁器を参考にしたもので、豪華絢爛な作風は、世界中で評価を高め、上流階級の愛好品となりました。国外への流通はオランダの東インド会社によって行われました。
また、国内向けの最高級品として、鍋島藩直轄の藩窯、鍋島焼が作られました。これは幕府や大名などへの献上品として作られ、当時の最高技術が用いられていました。当時は磁器を生産する技術、絵付けの技術を持っているのは有田焼しかなかったため、鍋島藩は陶工や窯を限定的な地域に置き、生活を保障する代わりに厳しく管理して外部と交流できないようにしました。
しかし、19世紀初頭に伊勢の陶工、加藤民吉の手により有田焼の技術は他の地域に広まることになりました。磁器の生産の独占が崩れたことにより、有田焼は相対的に市場での地位が低下することになりました。
明治以後の発展
江戸時代半ば頃から、有田焼の磁器は国内生産の磁器だけでなく、中国の景徳鎮窯などとの激しい競争にさらされましたが、明治新政府の殖産興業の推進によって、有田焼の名品が各国で行われた万国博覧会に出品され、高い評価を受けました。そのことで再び輸出品の価値を高めることになるのでした。