桃山時代以降、京都で作られる焼き物の総称をいいます。粟田口焼、御室焼など。ただし、その中でも「楽焼(聚楽焼)」は除外されています。

一度焼成した後に上絵付けを施した陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが京焼の特徴です。

桃山時代末期,茶道の興隆に伴って茶碗、茶入など茶陶の製造が盛んになり焼造の窯として始められたとみられています。はじめは瀬戸や、美濃の陶工が三条粟田口に窯を開き,唐物や古瀬戸写しの茶入,当時流行の高麗茶碗などの写しものを作ったといわれています。しだいに銹絵(さびえ)や染付なども併用して,瀬戸の緑釉(織部釉)や交趾(こうち)釉,七宝釉,色楽釉などを用いて,京焼色絵陶器の先駆的なものが作られました。

同時期に黒谷土と呼ばれる製陶に適した原料土が地元の山城国で発見され、陶磁器の生産の助けとなったともいわれています。

この頃の作品は不明な点が多いのですが、低温で焼成し、鉛を含む釉薬が使用されており、技法やデザインが多様なことが特徴となります。

その後、肥前有田地区の酒井田柿右衛門らの色絵磁器釉法の影響を受けて、京焼にも色絵が生まれるようになりました。明暦(1655-58)の頃には、野々村仁清によって華やかな色絵陶器が完成しました。調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した有田焼以外ではこれが唯一の例と言われており、かつ陶器では国内初になります。

その後、元禄(1688-1703年)の末に尾形乾山が琳派風のすぐれた作品を残しています。

明治以降は、清水寺周辺に陶工たちが集まり、磁器を焼き始めるようになり、これを「清水焼」と呼び、江戸時代の京焼とは区別しています。

明治維新後は体制や文化の変化に伴って茶陶の需要が激減し、廃業した者も多いですが、陶工の一部は日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)のような企業組織に入っていき、その技術を支えています。

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