“有田焼は日本を飛び出し海外でも高い人気を誇っています。どのように海外に輸出され、人気を博していったか、その経緯をご解説します。
有田焼の輸出が盛んになった背景
17世紀初頭にはじまった有田での磁器作成は、30年ほどで安定した作陶ができるようになり、量産体制も整ったことで、国外に輸出できるようになりました。1641年には長崎の出島から、オランダ連合東インド会社から海外市場に取引されるようになります。それまでは中国製の磁器が東南アジアからヨーロッパ諸国に至る市場を独占していたのですが、明朝末期の政情不安により中国製磁器の質が落ち、国際市場の需要を満たせなくなりました。そのため東インド会社が新しい磁器の供給先として有田焼を求めたという事情があったのです。国際的な需要の増加と有田焼の品質が安定するタイミングがうまく合致したともいえるでしょう。
また、外様大名であり、経済的な基盤が欲しかった鍋島藩の領主鍋島氏が、殖産業として作陶を奨励し、日本国内外との交易による生産上の運上銀(税金)、販売流通による運上銀を徴収することに注力したということもあります。特に国外の貿易品は大きな利益を生み出すとして重要視されました。貿易港である長崎に程近い立地も有利に働いたといえます。
そして、17世紀に入ってから変化したヨーロッパの流行も一要因です。金や銀の食器からガラス、磁器の食器が使われるようになったのです。オランダ、イギリス、ドイツ、フランスの王室や貴族たちは、権力の象徴として磁器を収集しました。
有田焼がオランダの陶磁器に与えた影響
有田焼が輸出された17世前半のオランダでは、デルフト陶器が起こっていました。中国の青花磁器がオランダに伝わると、その青と白を再現しようと、錫を使った白い釉薬を用いて白い下地を作り、その上に精密な青色を塗ったのです。中国の磁器に代わって有田焼がオランダに渡るようになると、その影響もみられるようになりました。
18世紀には染付だけでなく、柿右衛門風の赤絵を模したデルフト陶器が作られています。しかし、ドイツやイギリス、フランスで磁器生産が盛んになるとデルフト陶器は衰退していきました。日本にも江戸時代にデルフト陶器が伝来しており、有田焼の陶工にオランダ人の好みを伝えるために贈ったものや、幕府や大名への贈答品、日本からの注文で作ったものもあったようです。日本とオランダの陶磁器による交流がうかがえます。
中国、そして有田焼といった東洋の磁器の持つ白い色に魅了された西洋諸国は、磁器の生産技術の確立に力を注ぐようになりました。熱心な有田焼のコレクターであったドイツのザクセン候アウグスト二世は、錬金術師のベドガーを捕え、幽閉して磁器の研究を命じました。ベドガーは1709年、8年かけて磁器の焼成に成功し、マイセンに窯が開かれました。
さらにアウグスト二世は有田焼のよう色絵付けを再現するよう命じましたが、ベドガーはそれを実現することなく亡くなってしまいます。彼の後を継いでマイセン窯の主任絵付け師となったヘロルトが、磁器彩色用の絵具を開発しました。マイセン窯はその後ロココ調の磁器を主に生産していきますが、その基礎は有田焼の模倣から始まったのです。イギリスのチェルシー窯やボウ窯でも、ドイツ製の柿右衛門様式の磁器を模倣した磁器が作られました。また、フランスでもシャンティイ窯などで柿右衛門様式の模倣が行われています。マイセンは1979年に有田町と姉妹都市提携を結んでいます。
衰退と復活、再び有田焼は海外へ!
輸出品として発展を遂げた有田焼ですが、17世紀末から清王朝の体制が安定し、中国の代表的な窯である景徳鎮の磁器が輸出を再開すると、激しいシェア争いをするようになりました。また、江戸幕府の貿易政策の転換によって重量があり体積の大きい陶磁器の輸出が困難になったため、輸出用の有田焼は魅力を失っていきます。
1757年にはオランダ東インド会社に対する輸出が行われなくなり、有田焼は国内向け商品の生産に力を注いでいくことになります。しかし、江戸時代末期の1827年、有田は大火災に見舞われます。これによって作陶の設備、技術、あるいは人材に大きな損失を被ってしまうのです。
しかし、日本は開国を果たし、再び輸入品としての有田焼の需要は高まっていきました。そんな中、1867年にパリの万国博覧会で有田焼が出展され、大きな反響を呼びます。明治期に入ってドイツ人の科学者、ワグネルが有田に招かれ、西洋の知識、技術を伝えました。まず、斜面に作られ薪で焚く登り窯でなく、平地に作り石炭を使う石炭窯が日本で初めて導入されました。また、染付の絵具も呉須ではなく、コバルトを使った安価で使い勝手の良いものが伝えられたのです。
これらの技術革新も手伝って、明治期の有田焼はその後の万国博覧会でも高評価を得るようになります。図案も西洋風の意匠を取り入れて、固有の様式美が生まれました。この時期の有田焼は万国博覧会の伊万里と称されています。この有田焼の革新は、それ以降も常に新しい技法の開発を取り入れる姿勢につながり、現在でも有田焼を世界的なトップブランドとなっています。”